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ダンスとは、鏡に映った自分の鏡像に
生命を流し込む作業のこと。
カラダの中でいろいろ考えを巡らしている時、
そのコトバは外にいる人間には聞こえない。
もしカラダの中で考えたコトバが、その瞬間に、外に聞こえるならば、
人間関係は崩壊するであろうか。
崩壊するともいえるし、人間関係がその瞬間に成就するともいえる。
目の前にいる人間に対して
「こいつはこの世に、いない方がいいのではないか?」
という思考内容がそのまま外に聞こえるならば、
もはや会話の必要性はなくなる。
しかし実際、そのようなカラダ内部のコトバの「完全な公開性」によって
人間関係が成り立っている世界があるとするならば、
それは死者たちの世界なのではないか。
一ヶ月前に、ひとりの友人が死んだ。
それまで僕の外にいたその友人は、もはや会話できるような外にではなく
僕の心に住み始める。
この時、僕の心の内部に響いている声は、その瞬間にその友人に聞きとられる。
友人の考えもその瞬間、友人の声として、僕の心の中に流れ込んでくる。
完璧な人間関係。
そのような関係性を、もし「この世で」、単純に創りたいと思うなら、
ダンスするしかない。
動きは、頭部の中で語られている思考内容のように
隠匿することはできない。
ダンスにおいて「動き」とは、公開された人間内部の「声」である。
だから皆、ダンスを観る。
ダンスを感じようとする。
ダンスにおいては隠匿されている「動き」が、すべて公開される。
一方、観客はダンサーが、無意識の内に隠匿できると思っている「内なる動き」を
すべて「盗み見る」ことができる。
毎夜、劇場に通う観客がいる。
そのような人にとって今日、「ダンス技術」よりも「盗み観る技術」のほうがはるかに進化している。
そして「踊る」よりも「観る」方が、はるかに重要な意味を持ちつつある。
ダンスの主体がダンサーから観客へ移りつつある。
しかし、ダンサーがこの「公開された隠匿性」を観客から再び引き戻すことなく、
ダンスの主体が他者に受け取られた状態であり続けるならば、
その瞬間から緩やかに、ダンスはダンスのひとつの存在理由を失い始める。
なぜなら「ダンス」と「ダンス作品」は同一の地平には立ってはいない。
「作品」とは新たな「隠匿性」の創造なのである。
そして観る側に移動していったダンスの主体を
再びダンサーが舞台上へ引き戻し、
作品として
新しい「隠匿性」を創造しなければならない。
その時、再び観客は前堤なしに、零から
新たにダンスを観ることを始める。
太初にコトバあり
コトバは神と共にあり
コトバは神なりき
この冒頭の「太初」はギリシャ語からのドイツ語訳では
「Urbeginne(ウールベギンネ)」と記されている。
この「ウールベギンネ」とは、
単に抽象的な「ものの始まり」という意味ではない。
「ウールベギンネ」とはひとりの人間である。
始まりと一つに結びついている人間存在である。
世界とは「ウールベギンネ」という
全世界を内包した原人間がコトバを発することによって
創造される。
この原人間のコトバは声 とダンスとが
一体となって発声される。
この言葉はどこにも隠匿されることなく発声と同時にすべて公開される。
原人原は声を発する、
同時に、原人間はそれを聴く。
原人間の中で同時に起きるこの「発声と聴覚の結合」によって
世界は創造される。
それに続くヨハネ福音書の言葉
このコトバは太初に神とともにあり
よろずのもの、これによりて成り、
成りたるものに一つとして
これによらで成りたるはなし
原人間の世界創造は「公開された隠匿性」としての発声と
その声を同時に「聴く」という、
創造行為を創造作品に帰する、新たな「隠匿性」によって成り立っている。
旧約聖書における創世記では、神が様々な自然を創造していくとき
最後に神は常にそれを見て「善(よし)と言えり」という言葉が続く。
「善(よし)」とは
声によって創造された大自然界を一つの創造作品として
新たな隠匿性に変える「聴く」働きなのである。
人体とは創造された作品なのである。
だからダンス以前の人体それ自体は、「隠匿性の結晶体」である。
声は声の中から生じるのではなく、沈黙の「無」の中から生じる。
「無」が「有」に変わることによって、カラダは創造される。
創造のための、一切の前堤過程なしに、「無」が「有」に変わる。
ダンスでいうなら、「プレパレーション」という前提運動なしに突然、
「動き」が生じる。
前堤的運動を「動き」とみなすならば、
その「動き」を生み出すための、さらなる「前堤的動き」を想定しなければならない。
この連鎖は無限に続く。
「有」を生み出す創造は、無限の前堤的創造の中から生まれるのではなくて
突然「無」の中から生じる。
この「無」は「不在」ではなく、「鏡像」である。。
「存在」の反対概念は「不在」ではなくて「鏡像」である。
創造とはただ「鏡像が実像になる」ことによって生じる。
「イメージ」という「鏡像」が「実像」になることによって生じる。
だから次のように記すことができる。
太初に鏡像あり
鏡像は原人間とともにあり
鏡像は人間なりき
よろずのもの鏡像によりて成り
成りたるものに、これによらで成りたるはなし。
原人間が鉱物植物動物という大自然界と人体を創造する時、
太初に鏡像があった
原人間は世界の淵で世界を取り囲んでいる鏡像の壁に
みずからの姿を映し出す。
この鏡像が実像に成り、世界が創られる。
声が鏡像に働きかけると鏡像は実像に変わる。
声が鏡像の人体から実体を生み出す。
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天使館の舞踏者は自己の肉体を引き受けつつ、物質としての肉から霊への回路を直進していくのだろう。舞踏することは肉の生理を反転して反生理に行きつくことである。前もってする振付は肉を理性に従属させ、温和な表情をもたせてしまうだろう。肉体は理性の反映でしかなく、糞袋として横行するだけにしか過ぎなくなる。肉体は意識を踊ることを停止し、肉体の自動記述による舞踏に移行する時、理性からの解放が現実化する。だが同時にまた肉の生理を反生理に転移させるために、肉を霧散させねばならないだろう。ここで肉体は錯乱を余儀なくされるのだ。物質としての肉体と意識の呪縛から脱れ去るには、それぞれの論理からはずれてしまうことさえ必要なのである。錯乱とは支配から脱れ得る唯一の道かもしれない。錯乱を肉のアナキズムと名付けてもよい。少なくとも、肉の生理と理性の支配は錯乱を通して影を消し、錯乱の真只中から錯乱によってしか得られない観念が浮上してくる。
いくつかの例をあげてもよい。笠井がたびたびこころみるいくつかの変身。私が見た時は魔女から、聖女、そしてよくわからないが道化ハレルキンへと変身していった。変身はつねに登場人物の肉体を裏切り、肉体の迷宮を形成していく。変身の激しさは最終的には登場人物のアイデンティティを崩壊させ、混沌のなかに溶解してしまう。あるいは、アンドロギュヌス的登場人物は、ある微少な仕種によっても男と見えたり、女に見えたりして視覚を攪乱し、性的一貫性を消失させてしまう。錯乱に形式があるとすればこうした型で現われてくるが、そこに見られるものは現実に見られる肉の生理ではなく、反生理の観念なのである。変身といい、アンドロギュヌスといい、エロチシズムあるいは倒錯した錯乱といってよいだろう。乱脈、狂気という肉体の次元に立ちいたると、肉体は他の肉体を喰いつくしながら交感し合うものである。
古典バレエのもっているシステムの多くは生理に逆らう性質のもので、ひどく無理な姿態を要求している。ヴォリンスキー、ツハリアスなどがそこに宇宙的なシンボリズムを発見したのは、バレエ自体が肉体を錯乱させることによって至高な観念の高みにいたるシステムを持っているからである。ヴォリンスキーなどがバレエにおける肉体をミクロコスモスと断定したのもこのためだ。だが、バレエは宇宙のシンボリズムとして成立したとしても、エロチシズム―すなわち性的錯乱によって物質としての肉体を壊滅させることに不足している。肉体を技術の倒錯だけでなく、エロチシズムの極点において錯乱せしめたのは笠井叡がはじめてではなかっただろうか。
天使館は舞踏集団であるというより、今や個の自覚による位階更新を目ざしていると聞く。だんだんと舞踊家であることから遠ざかり、肉体を注視する思想集団になりつつあるようだ。それとともに、イメージ主義から離れていくのだろう。かつての暗黒舞踏派が土俗的であるという点でリアリティをかちえ、そしてまた過剰とも思えるシュールリアリステックなイメージを持っていたのに比較すると、なんという相違であろう。舞踏は芸術として奉仕しなければならないのだろうかという設問は重大である。観客に奉仕するにはイメージの累積、またはイメージの故意の貧困さ(アブストラクト・バレエを見よ)が必要であるに違いない。だが、天使館の舞踏会には振付はないし、ことさらの演出もなく、ただ個人の錯乱の軌跡を残すのみなのである。ここでは様相が一変していることを再度確認しなければならない。舞踏者は即興で踊っているが、呪縛に対して即興性を強調しているわけではない。即興音楽、即興舞踊の類ではなく、彼らにとって即興とは意識と肉体の相互非依存性ともいうべき、錯乱の様態なのである。反イメージ主義といっても、観客にとってはイメージとして受容されやすいが、舞台上の完結性を求めることを拒否しているとなれば、ここにはただ演者のイメージ追従否定のほうが大きく浮かび上がってくるのだ。天使館は舞踏に接近しながら、遠ざかっている、接近と遠隔のアンドロギュヌスというべきだろうか。
1963年10月「犠儀」朝日講堂(duo大野一雄)
1966年 8月23日「磔刑聖母」(處女リサイタル)銀座ガスホール(大野一雄・高井富子協力出演)
1967年5月11日「O嬢の物語」(ダンスエキジビションsolo)都市センターホール
1967年10月30日「舞踏への招宴」(独舞リサイタル)第一生命ホール
1968年8月30日 「稚児之草子」(独舞リサイタル)新宿厚生年金会館
1969年6月「タンホイザーⅠ」(独舞リサイタル)厚生年金会館小劇場
1971年4月 天使館設立
1971年10月「丘の麓」現代舞踊の異形公演)(共演 大野一雄)
1972年1月「タンホイザーII」(独舞リサイタル)厚生年金会館小劇場
1972年8月「三つの秘蹟のための舞踏会」(天使館舞踏公演)厚生年金会館小劇場
1973年6月30日〜9月30日(土・日)「七つの封印」(天使館舞踏公演)赤坂国際芸術家センター
1974年7月「天照大御神への鎮魂の舞ひ」(独舞リサイタル)赤坂国際芸術家センター
1974年10月「伝授の門」—現代における秘儀とは何か— (天使館公演・講演高橋巌)
1976年1月10日「月読蛭子」(独舞リサイタル)第一生命ホール
1976年3月9日「トリスタンとイゾルデ」九段会館(共演 笠井久子・堀内博子)
1976年9月7日「個的秘儀としての聖霊舞踏のために」(独舞リサイタル)第一生命ホール
1976年12月22日「物質の未来」(独舞リサイタル)第一生命ホール
1977年4月14日「龍の姿をした愛欲の母なるティアマット」(独舞リサイタル)朝日生命ホール
1977年7月1日「冥王の妃ティアマット」(独舞リサイタル)朝日生命ホール
1978年1月〜8月「エーテル宇宙誌」(連続舞踏公演solo)天使館・朝日生命ホール
1979年1月17日「悲惨物語」(舞踏作品集Ⅰsolo)第一生命ホール
1979年3月6日 「ソドム百二十日」(舞踏作品集II)第一生命ホール
1979年5月1日「死美人」(舞踏作品集ⅢII)第一生命ホール
照明/森下泰
音楽制作/角田寛生
音響/稲荷森健
衣裳/萩野緑
舞台監督/河内崇 湯山千景
宣伝写真/笠井爾示
出演者写真/笠井禮示
宣伝美術/NU
制作補/平岡久美
制作/高樹光一郎(一般社団法人ハイウッド) 一般社団法人天使館
プロデューサー/笠井久子(一般社団法人天使館)
主催/一般社団法人天使館
提携/公益財団法人せたがや文化財団 世田谷パブリックシアター
助成/文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)
独立行政法人日本芸術文化振興会
後援/世田谷区
【お問合せ】
ハイウッド
TEL:03-6302-0715 (平日11:00〜18:00)
E-mail:hiwood.info@gmail.com
チケット料金
全席指定・税込
A席(1・2階席) B席(3階席)
一般 前売 A席 5,000円 B席4,000円/当日 A席5,500円 B席4,500円
学生割引 前売 A席3,500円/当日4,000円
世田谷パブリックシアター友の会 A席4,700円(前売のみ)
せたがやアーツカード会員 *1 A席4,800円(前売のみ)
U24 *2 A席4,000円(前売のみ)
*1:世田谷区在住の方対象。詳細・お申込みは世田谷パブリックシアターチケットセンター、または劇場公式サイトへ。(要事前登録)
*2:18〜24歳の方は世田谷パブリックシアター主催公演の前売チケットが半額になるほか、主催以外の一部公演についても割引料金でお求めになれます。
詳細・お申込みは世田谷パブリックシアターチケットセンター、または劇場公式サイトへ。このサービスはトヨタ自動車株式会社が提供しています。(要事前登録)
※学生券・U24チケットをお求めの方は、当日、証明書をご提示ください。
※未就学児童の入場はご遠慮いただいております。
チケット取扱
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料金:一般 A席より10%割引(付添者は1名まで無料)
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託児サービス(定員あり・要予約、ご利用希望日の3日前正午まで)
料金:2,200円(1名につき)
対象:生後6ヶ月以上9歳未満(障害のあるお子様についてはご相談ください)
申込:世田谷パブリックシアター TEL:03-5432-1526
【新型コロナウィルス感染症拡大予防のためのご理解とご協力のお願い】
●当公演は新型コロナウイルス感染症拡大防止に関する取り組みを講じた上で開催いたします。
●ご来場の際には必ずマスクをご着用の上、館内での検温・手指消毒等にご協力ください。(37.5°C以上の発熱がある方は、入館できません。)
●入場時、チケットの半券はお客様ご自身でお切りいただき、所定の場所にお入れください。
●劇場内での混雑を避けるため、入退場時に制限を行う場合があります。
●感染症対策のため、お客様の購入時のご連絡先を保健所などの公的機関に提供する場合があります。
●劇場HPに掲載の新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドラインをお読みいただき、ご了解の上、ご来場ください。